イヴァン3世
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イヴァン3世 Иван III Васильевич | |
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モスクワ大公 | |
在位 | 1462年3月27日 - 1505年10月27日 |
戴冠 | 1530年2月20日 |
全名 | イヴァン・ヴァシリエヴィチ |
出生 | 1440年1月22日 モスクワ |
死去 | 1505年10月27日(満65歳没) |
配偶者 | マリヤ・ボリソヴナ |
ゾエ・パレオロギナ(ソフィヤ) | |
子女 | イヴァン エレナ エレナ ヴァシーリー3世 ユーリー ドミトリー フェオドーシヤ シメオン アンドレイ エウドキヤ |
王朝 | リューリク朝 |
父親 | ヴァシーリー2世 |
母親 | マリヤ・ヤロスラヴナ |
イヴァン3世(Иван III Васильевич / Ivan III Vasilevich,1440年1月22日 - 1505年10月27日)は、モスクワ大公(在位1462年 - 1505年)。イヴァン大帝の異称でも知られる。ヴァシーリー2世の長男、母はセルプホフ公ウラジーミルの孫娘であるボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナ。東北ルーシを「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて強力な統一国家を建設した名君と評価される。
目次 |
ロシア統合
イヴァンは即位直後から侵略、婚姻、相続といった様々な手段を使い近隣諸地域の併合を続けていった。まず1463年にヤロスラヴリ公国の諸公に、1474年にはロストフ公国の諸公にそれぞれ統治権を譲渡させた。イヴァンは1465年に妹アンナをリャザン大公ヴァシーリー3世に嫁がせてリャザン公国を保護国化し、さらに1503年に公国の半分を自領に組み入れた。またトヴェリ公国はイヴァンの最初の妻マリヤの兄ミハイル3世が統治していたが、彼はリトアニアの統治者カジミェシュ4世と結びイヴァンに敵対しようと企んで大公の地位を追われ、1485年にはトヴェリもモスクワ国家の版図に加わった[1]。
大公国内の分領制の伝統は続いていたが、イヴァンはその弊害を最小限に抑える努力を怠らなかった。1462年、大公位継承と同時にイヴァンは大公国領のおよそ半分を手に入れたが、残りの領土は慣習に従い4人の弟達に分領として与えられた。しかしイヴァンは二人の弟が子供なくして死ぬと、慣例を破って彼らの所領であるドミトロフ、ヴォログダを回収した(1473年、1481年)。イヴァンの強圧的姿勢に、存命中の二人の弟ウグリチ公アンドレイ、ヴォロク公ボリスは反抗的態度を取るようになり、特に前者は投獄され領地を没収された。1486年にも分領ヴェレヤとベロオーゼロ公国が併合された。
治世中の最も大規模な併合は1478年のノヴゴロド共和国に対するものだった。1471年イヴァンはノヴゴロドの親リトアニア政権を遠征によって倒し、1477年には直接統治への移行を強要した。はじめ所領を安堵されたノヴゴロド貴族たちは、1500年頃までに財産を奪われて他地域に強制移住させられ、ノヴゴロド貴族の旧領は大公国の軍事勤務者に割り当てる封地(ポメスチエ)として利用され、封地制度の発展を支えた。1489年にはヴャトカ共和国が滅ぼされ、イヴァン3世の治世末年にはロシアに残るモスクワ国家以外の法的な独立国家はリャザン公国とプスコフ共和国のみとなったが、この二国も事実上モスクワの支配下にあった。
タタール
当時のモスクワ国家は西部ではリトアニア大公国、東部・南部のタタール支配下の諸地域ではジョチ・ウルスの正嫡を自任する大オルダと敵対しており、この東西の敵が同盟を結んでモスクワに挑戦する状況にあった。このためイヴァンはクリミア・ハン国のメングリ1世ギレイと同盟してこれを迎え撃った。サライの地方政権に成り下がっていた大オルダの再興を望むアフマド・ハンは、貢納と臣従の再確認を要求して、何度もモスクワ大公国に攻め込んでいた。1480年10月、アフマド・ハンはリトアニアのカジミェシュ4世の援軍を期待しつつモスクワへの大規模な遠征を再開したが、イヴァンはウグラ川(オカ川支流)に大軍を結集させてアフマドの進軍を阻み、アフマドは数週間後に退却した。このウグラ河畔の対峙は、「タタールのくびき」からの最終的解放を象徴する事件として、ロシア史でも最も重要な出来事の一つとされる。
イヴァン3世はカザン・ハン国の保護国化も試み、同国の皇子で自分に臣従していたカースィムをハンに立てようと考え、カザンに三回の遠征(1467年‐1469年)を行ったが成功しなかった。さらに1482年に再びカザンでハン位の後継者争いが起きて、敗北者のムハンマド・アミンがモスクワに逃れて援助を要請すると、1487年にロシア軍がカザンを包囲して対立ハンの政権を崩壊させた。復位したムハンマド・アミンはイヴァン3世への忠実な同盟者となり、イヴァンは以後リトアニアとの戦いに専心することが容易になった。しかしイヴァンは上記のタタール諸国への貢納を不定期の「贈り物」として続けており、タタールは未だロシアの脅威であり続けていた。
ヨーロッパ
1492年、カジミェシュ4世の没後にポーランドとリトアニアの同君連合が一時的に解消された。イヴァンはこの混乱に乗じてヴャジマ一帯を占領した後、休戦に持ち込んで1494年にリトアニアとの友好同盟を結んだ[2]。リトアニア側はイヴァンが名乗った「全ルーシの君主」の称号を認めたうえ、占領された国境地帯を割譲した。翌1495年にはイヴァンの娘エレナが、リトアニアの新統治者アレクサンデルと結婚した。しかしリトアニアではカトリック教会による正教会の合同計画が進み、リトアニアの正教徒たちはイヴァン3世に自らの宗教的権利が侵害されているとを訴え、ルーシ系諸公の中にはイヴァンに臣従する者も出始めた。1500年5月、イヴァンはリトアニアに宣戦し、ヴェドロシャの戦いで敵軍を破った[3]。1503年4月に6年間の休戦条約が結ばれ、この条約でモスクワ側はチェルニゴフ、ノヴゴロド・セーヴェルスキー地方を始めとするリトアニア領の広い地域を支配下に収めた。またドニエプル川河畔の都市リューベチの獲得は、クリミアとの陸上交易ルートの支配権をモスクワ商人にもたらした。
ノヴゴロド共和国の併合とプスコフ共和国の保護国化により、イヴァンは必然的にリヴォニアのドイツ騎士団、スウェーデンなどバルト海世界の覇権争いに巻き込まれた。ドイツ騎士団の野心に対抗するため、1492年にナルヴァの対岸に要塞都市イヴァンゴロドを建設したが、この地は経済的な拠点としても繁栄した。イヴァンはさらにデンマーク王ハンスと同盟を結び、1495年には共同でスウェーデンとの戦争に乗り出したが、この戦争はデンマークを利するだけに終わった。また、1480年代にはカフカースの小国家カヘティア王国との通交も始まった。
ツァーリ
イヴァン3世は1472年、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪に当たるゾエ(ソフィヤ)と再婚した。これによってロシアは「第三のローマ」として世界帝国の継承国家を自任し、双頭の鷲の紋章を使用したり、ツァーリの称号を皇帝として名乗ったとされるが、こうした理解はかなり短絡的である。そもそも、ソフィヤとの結婚はその後見人だったローマ教皇シクストゥス4世のイニシアティヴが強かった[4]。またツァーリの称号は1470年代から使用され始めたが、この称号はタタールのハンや東欧の君主を指す時に使用されたりして、この時代には「独立国家の君主」以上の意味を持たなくなっていた。またイヴァン3世のツァーリ称号は、ドイツ騎士団やバルト海沿岸の諸都市のようなロシア外の小国にしか使わない非公式のものだった。ツァーリ称号をビザンツ帝国の後継者という政治的主張と解釈するのは、当時のロシアの国際的地位から見ても無理があると思われる。
しかしソフィヤがもたらした文化的影響は軽視出来ないものであり、外国宮廷の洗練された礼儀作法が入ってきたし、イタリア人の建築家や技術者なども呼び寄せやすくなった。イヴァンは積極的にルネサンス建築への関心を示し、モスクワのクレムリン内にある宮殿や教会の本格的な建設や改築を行わせた。建築家フィオラヴァンティがウスペンスキー大聖堂を1479年に完成させたのを始め、ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂やアルハンゲリスキー大聖堂が建設・再建されて、堅牢な城砦クレムリンは宏壮な宮殿群へと変貌を遂げた。
後継者問題
1490年、イヴァンの同名の長男で後継者だったイヴァンが没すると、その息子ドミトリーと、異母弟ヴァシーリーのいずれを世継ぎにするかで対立が起きた。これは双方の母親エレナと大公妃ソフィヤとの宮廷の主導権争いが表面化したものであり、ドミトリー派には貴族会議の議長パトリケーエフ公を始めとする大貴族勢力が、ヴァシーリー派にはイヴァン3世に批判的な勢力が多かった。この対立をさらに複雑にしたのは宗教問題である。当時の正教会は教会財産の放棄を訴える非保有派と、これに反対する保有派に分かれて対立していたが、ドミトリーの母エレナは非保有派に近いセクト「ユダヤ派」の信者のため、保有派はドミトリーを嫌った。イヴァン3世は教会領を没収する目的から、非保有派に寛大だった。
1497年、ヴァシーリー支持派によるドミトリー暗殺計画が露見し、同派の多くの者が処罰を受け、ヴァシーリーと母ソフィヤも軟禁状態におかれた。1498年2月にはドミトリーが共同統治者とされたが、ソフィヤは陰謀をめぐらし夫の重臣パトリケーエフ公を失脚させて[5]、自分と息子の名誉を回復させた。翌1500年にはヴァシーリーが改めて共同統治者に指名され、1502年にはドミトリーと母エレナが逮捕された。ヴァシーリーの勝利は正教会内における保有派の優位を決定づけ、1503年の教会会議ではヨシフ・ヴォロツキーら保有派の主張が通り、教会財産の世俗化は否定された。さらに翌1504年にはユダヤ派が異端として断罪され、非保有派に近い自らの立場が弱まってゆく中で、イヴァン3世は1505年10月に死去した。
脚注
- ^ イヴァンは別々の法体系を持つ諸地域を自国に組み入れたわけだが、ロシア全土に適用される1497年法典を施行して中央集権体制への先鞭をつけた。この法典は訴訟規則や刑罰を規定し、また聖ユーリーの日のような農民の移動の自由などにも規制を設けた。
- ^ 既に1480年代頃からモスクワ国家はリトアニア国境で紛争を開始し、リトアニア領となっていた西ルーシ地域への影響力を強めていた。
- ^ 一方のアレクサンデルは1501年にポーランド王を兼ねるとドイツ騎士団と同盟し、戦力を東部に傾注してスモレンスク防衛に成功した。
- ^ 教皇にはロシア正教会をカトリック教会に引き寄せ、モスクワ国家をオスマン帝国の脅威に対抗するための同盟者とする狙いがあった。
- ^ 後任の貴族会議の議長には、ヴァシーリーの同母妹フェオドーシヤと結婚していたヴァシーリー・ホルムスキー公が就任した。
関連項目
- ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタイン
- カシモフ・ハン国
- スジェブニク (1497年)
参考文献
- G・ヴェナルツキー / 松木栄三訳『東西ロシアの黎明』風行社 1999年 ISBN 4-938662-42-6
- 田中陽兒 / 倉持俊一 / 和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史1』山川出版社 1995年 ISBN 4-634-46060-2
- デヴィッド・ウォーンズ著 / 栗生澤猛夫監修『ロシア皇帝歴代誌』創元社 2001年 ISBN 4-422-21516-7
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