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Significations et usages de フランクリン・ルーズベルト

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Synonymes

フランクリン・ルーズベルト (n.)

フランクリン・デラノ・ルーズベルト, ルーズベルト

Dictionnaire analogique

フランクリン・ルーズベルト (n.)


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Wikipedia

フランクリン・ルーズベルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フランクリン・D・ルーズベルト
Franklin Delano Roosevelt

アメリカ合衆国
第32代大統領
任期:1933年3月4日1945年4月12日
副大統領:ジョン・N・ガーナー(1933年-41年)
ヘンリー・A・ウォレス(1941年-45年)
ハリー・S・トルーマン(1945年)
出生:1882年1月30日
ニューヨーク州ハイドパーク
死去:1945年4月12日(満63歳没)
ジョージア州ウォームスプリング
政党:民主党
配偶:アンナ・エレノア・ルーズベルト
サイン:ファイル:Franklin D. Roosevelt signature.gif

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国政治家ローズベルトローズヴェルトとも表記される(綴りを意識して/ˈruːzəvɛlt/と長母音で発音する者もいるが、フランクリン自身は二重母音で/ˈroʊzəvəlt/と発音していた)。民主党出身の第32代アメリカ大統領1933年 - 1945年)。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一四選された大統領である。初代のワシントン大統領が三選を固辞した故事から大統領は二選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年と1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条)、正式に大統領は二選までと定められた。

目次

人物

ルーズベルトはアメリカ史上唯一、4選された大統領で、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領でもある。

任期中に世界恐慌第二次世界大戦を経験し、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人だった。ルーズベルトのニューディール政策はアメリカ合衆国経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価されている。アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。しかし、独裁者であるヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取ったことは、後に批判の対象となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場によって正反対に変わってくる。「リベラル」派から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

一方、ロナルド・レーガンのような保守的な指導者は、ルーズベルトの社会施策におけるリーダーシップを賞賛した。しかし、現在においては小さな政府を唱える保守派はルーズベルトのニューディールにきわめて否定的評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。だが「炉辺談話(fireside chats)」に象徴されるように、当時の最新メディアであるラジオを通じて国民との対話を重視したとされ、アメリカ国民が「歴代大統領で最も尊敬する指導者は誰か」と聞かれると上位に位置する人物でもある[1]ように、アメリカ国民からの人気は高い。

しかし、第二次世界大戦中にドイツ人やイタリア人に行わなかった日系人の強制収容や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する事実上の妨害という、ルーズベルトの人種差別的観点から行われた失政は、その立場を問わず大きな批判の対象となっただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。この民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代ジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越される事となる。

生い立ちと家族

父親とともに

フランクリン・ルーズベルトは1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。彼の父親ジェームズ・ルーズベルト(1828年 – 1900年)は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家は1650年頃にオランダハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダムと呼ばれていた)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系の家系とする説がある(※ ルーズベルト家のもともとの姓はRozenveltローゼンヴェルト, 英語で 'field of roses'の意)。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。

18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンの従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家の集いで妻に出会い、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトの姪(この姪は後の妻・アナ・エレノア・ルーズベルトとは別人)と結婚する予定であった。

フランクリンの母親Sara Delanoサラ・デラノ(1854年 – 1941年)は、フランスプロテスタント教徒(ユグノー)であり、彼女の祖先は1621年にマサチューセッツに移住したPhilippe de Lannoy フィリップ・デ・ラ・ノイであった。その彼女の母親ライマンはアメリカの非常に古い家系のうちの一つの出身であった。また、彼女の家は中国貿易で財をなしていた[2]。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供(大変な難産)であり、ジェームズは再婚で、フランクリンが生まれたとき54歳と高齢(すでに長男ジェームズに息子、つまり孫がいた)であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた。フランクリンは後に友人に生涯、母親を恐れていたと語っている。

この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは学校には通わずに家庭教師の手によって教育を施された。父母や家庭教師などに過保護に育てられ、同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、周りに父母や家庭教師しかいない環境と厳しい寄宿舎生活とのギャップにとまどい、学校にはあまりなじめなかったという。

フランクリンは1904年アイビーリーグのひとつハーバード大学、および1908年同じくアイビーリーグのコロンビア大学ロースクールを卒業した。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。

1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式には、大統領セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わり(実父はすでに逝去)に出席した。名彼らは6人の子供をもうけた。4番目の息子エリオットは作家となった。

愛犬ファーラとともに
  • アナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt...母親と同名 1906年5月3日 - 1975年12月1日)
  • ジェームズ・ルーズベルト(James Roosevelt 1907年12月23日 - 1991年8月13日)  海兵隊士官としてマキン奇襲などに参加。
  • フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The first Franklin Delano Roosevelt Jr. 1909年3月18日 - 1909年11月1日)
  • エリオット・ルーズベルト(Elliott Roosevelt 1910年9月23日 - 1990年10月27日)
  • フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア(The second Franklin Delano Roosevelt Jr. 1914年8月17日 - 1988年8月17日)
  • ジョン・アスピノール・ルーズベルト(John Aspinwall Roosevelt 1916年3月13日 - 1981年4月27日)
  • 愛犬・ファーラ(他、犬を数匹飼っていた) ファーラはフランクリンの死後も、車のクラクションを聞いては主人が帰ってきたと思ったらしく、立ち上がったという。
  • 愛人・ルーシー・ページ・マーサー・ラザーフォード(Lucy Page Mercer Rutherfurd 1891年4月26日 - 1948年7月31日)  元エノリア・ルーズベルトの個人秘書。1918年以前にフランクリン・ルーズベルトの愛人になる。フランクリン・ルーズベルトの急死時(1945年)も付き添っていて最期を看取った。

政治経歴

28歳で民主党ニューヨーク州議会上院議員に選ばれた後、ルーズベルトは次の役職を歴任した。

1920年の大統領選で、ルーズベルトは民主党大統領候補ジェームズ・M・コックスの副大統領候補だった。

ルーズベルトの1932年の大統領選挙戦は、「三つのR - 救済、回復および改革」(Three R's - relief, recovery and reform.)の綱領で世界恐慌と戦うとして行われた。彼はそのスピーチの中で“ニューディール”の用語を造った。「私は誓約します。私は、米国民のための新規まき直し政策を誓約します。 I pledge you, I pledge myself, to a new deal for the American people.」。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミで暗殺されそうになった[3]。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。

大統領職

ニューディール政策

世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・テネシー川流域開発公社 (TVA) などの大規模公共事業による失業者対策・社会保障の充実などの政策を行って克服を図ったが、失業率が依然高止まり状態を保つなどなかなか成果が上がらず、やがて労使双方から反発もおきるようになった。

しかしながら、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)が対立し、議論の対象になっている。ただし前政権における清算主義金融政策からの脱却、管理通貨制度の確立(大統領令6102号により、市民に金貨、金塊の保有禁止を命令した)は、現在では大方の立場から有効な政策であったと認められている。

炉辺談話

マイクの前に座るルーズベルト

なお、当時最も浸透していたメディアであったラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。

内閣

職名氏名任期
大統領フランクリン・D・ルーズベルト1933 - 1945
副大統領ジョン・ナンス・ガーナー1933 - 1941
ヘンリー・A・ウォレス1941 - 1945
ハリー・S・トルーマン1945
国務長官コーデル・ハル1933 - 1944
エドワード・ステティニアス1944 - 1945
陸軍長官ジョージ・ヘンリー・ダーン1933 - 1936
ハリー・ハインズ・ウッドリング1936 - 1940
ヘンリー・L・スティムソン1940 - 1945
財務長官ウィリアム・ウッディン1933 - 1934
ヘンリー・モーゲンソウ1934 - 1945
司法長官ホーマー・S・カミングス1933 - 1939
ウィリアム・F・マーフィー1939 - 1940
ロバート・H・ジャクソン1940 - 1941
フランシス・ビドル1941 - 1945
郵政長官ジェームズ・A・ファーレイ1933 - 1940
フランク・C・ウォーカー1940 - 1945
海軍長官クロード・スワンソン1933 - 1939
チャールズ・エジソン1940
ウィリアム・フランクリン・ノックス1940 - 1944
ジェイムズ・フォレスタル1944 - 1945
内務長官ハロルド・L・アイクス1933 - 1945
農務長官ヘンリー・A・ウォレス1933 - 1940
クロード・レイモンド・ウィッカード1940 - 1945
商務長官ダニエル・カルフーン・ローパー1933 - 1938
ハリー・ロイド・ホプキンス1939 - 1940
ジェス・H・ジョーンズ1940 - 1945
ヘンリー・A・ウォレス1945
労働長官フランシス・パーキンス1933 - 1945

最高裁判所判事

在職中に設立された機関

  • テネシー渓谷開発公社 (Tennessee Valley Authority, TVA)
  • 民間植林治水隊 (Civilian Conservation Corps, CCC)
  • 公共工事局 (Public Works Administration, PWA)
  • 公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA)
  • 社会保障局 (Social Security Administration)
  • 連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)

第二次世界大戦

1939年に始まったヨーロッパにおける戦争に対しては、当初イギリス寄りではあったものの、武器援助以外には基本的には介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたいと考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。

蒋介石の妻の宋美齢エレノア

当時ヨーロッパ戦線においてアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に、イギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスウィンストン・チャーチル首相や、日中戦争下にあった中華民国蒋介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけており、この様な背景が「ルーズベルトが第二次世界大戦へ参戦したがっていた」という意見の根拠になっている。

ただし、ルーズベルトが参戦を望んでいたのはアメリカの権益・領土に直接害が及ばないヨーロッパ戦線であり、ハワイフィリピンなどの、アメリカ領土や植民地、中華民国内の租界などのアメリカの利権に直接被害が及ぶ可能性の高く、(ヨーロッパと太平洋の)2つの戦線で戦うことになる対日開戦には消極的であったとも言われている。

なおルーズベルトは、1939年にレオ・シラードアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。

対中支援

駐機するアメリカ軍機を警護する中華民国軍の兵士
日本への宣戦布告を行うルーズベルト
ファイル:SanPedro to SantaAnita.gif
アメリカ軍兵士の監視下で強制収容所に運ばれる日系アメリカ人

いずれにしてもルーズベルトは、1937年盧溝橋事件勃発後に日中戦争で中国国民党を追い込む日本に圧力をかけ、大量の物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる中華民国の国民党政権に送り続けることとなった。また自らが率先して組織させたアメリカの「退役軍人」を中心とした義勇軍「フライング・タイガース」や「軍事顧問」を中華民国に派遣させるなど、中華民国と対立する日本に対する態度を硬化させていった。

またルーズベルトは宣戦布告なしに中国から日本本土を爆撃する計画に「OK」とサインした。しかし爆撃機は中国に届かず宣戦布告なしの爆撃は行われなかった。[4]

その後1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)により大量の武器や軍需物資を中華民国へ援助した。同年に行われた大日本帝国陸軍の北部仏印進駐を契機に日米関係は悪化し、ルーズベルト政権はくず鉄を始めとする各種資源の対日禁輸に踏み切った。

太平洋戦争

その後、日本が南部仏印進駐を行うと、在英米蘭の日本資産凍結、日米通商航海条約の廃棄、対日石油禁輸といった強硬的な政策を立て続けに行った。1年間にわたる日米交渉を続けるも、「事実上の宣戦布告」とさえ言われるハル・ノートにより交渉も破綻、ついに1941年12月7日(日本時間で12月8日)の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発し、翌日、「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾攻撃を国民に告げる)として、日本への宣戦布告を議会に求めた(演説の冒頭で「a date which will live in infamy=屈辱の日」の表現を用いた)。上院は全会一致、下院は女性議員1人が反対したのみで、宣戦布告を認めた。

ルーズベルトは、真珠湾攻撃を報告され「これは戦争ということだ」と言っている。その後、イギリス首相チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と発言している。その後議会で日本軍の「卑劣なだまし討ち」を非難し、宣戦布告の誓約に署名した。

幾人かの歴史家や野党の共和党議員などは、「ルーズベルトは真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過した」と主張しているが、「知っていた」とする証拠は存在せず、一般には陰謀論と見られている。また、ルーズベルトの親族がアヘン戦争の頃から中国とアヘン貿易を手広く行っていたことから、ルーズベルト本人も中国人に対して同情的、かつ友好的な考えを持つ親華派であったことが、日中戦争に関する政策に影響を与えたとする見方がある。さらに、日本の中国大陸や仏領インドシナにおける活動が、アメリカの満州中国大陸東南アジアへの進出に邪魔になるためそれを排除しようとしていたという説もある。

実際に、蒋介石と宋美齢による働きかけを受け、上記のようにアメリカ軍人のクレア・L・シェンノートを中国大陸において日本軍と対峙する中華民国国軍に「軍事顧問」として派遣すると同時に、戦闘機などの軍事物資を送り、「アメリカ義勇航空隊(通称:フライング・タイガース)」を組織させていた。なお、アメリカ義勇航空隊による中国大陸における活動を、「事実上のアメリカによる日中戦争に対する参戦」と見做す意見もあるが、日米開戦前からアメリカは直接戦闘に向けた準備は行っていたものの、様々な障壁から直接に戦闘を開始するのは日米開戦後である。

「人種改良論者」

イギリスのロナルド・キャンベル駐アメリカ公使がイギリス政府へ行った報告によると、ルーズベルトは「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」と信じていたという。「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」とキャンベルに語ったという。

この様な自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、1941年12月の対日開戦後には、エレノアからの反対をも押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあったブラジルメキシコペルーなどの中南米諸国において、日系人の強制収容政策を推し進めた。

連合国首脳との会談

カイロ会談で蒋介石とチャーチルとともに
ヤルタ会談の三巨頭

ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。1943年1月14日には、イギリスのチャーチル首相と会談するためフロリダ州マイアミからモロッコカサブランカに出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。会合は1月24日に終えた。

同年11月にはエジプトのカイロで行われたカイロ会談において、中華民国蒋介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。

その後チャーチル首相とともにイランテヘランに移動してソ連ヨシフ・スターリン書記長と会談。1945年2月にはスターリン書記長、チャーチル首相とともにヤルタ会談に出席した。しかし、この頃になるとルーズベルトの体調は悪化し、急激に痩せ衰えていたことがヤルタ会談での映像・写真から見て取れる。ヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を早期に終結させるため、スターリンに対し、千島列島南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。その一方で露骨な領土的野心を露わにしていたスターリンの要求をほぼ丸呑みする形となり、戦後の東西冷戦を招く要因を作ったとも言われる。

勝利を目前にした死

ルーズベルトは共和党候補トーマス・E.デューイに勝ち、1944年11月7日に先例のない4選を果たした。しかしながら肖像画の制作途中、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で死亡し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死であった。墓はニューヨーク市のウッドロン墓地にある。

なお、この時、当時のドイツ政府は徹底抗戦を決意するアドルフ・ヒトラーが公式声明を発表。「ルーズベルトは今次の戦争を第二次世界大戦に拡大させた扇動者であり、さらに最大の対立者であるソ連を強固にした大統領として史上最悪な戦争犯罪者として歴史に残るだろう」とルーズベルトを徹底的に罵倒し、死を喜ぶ声明を発した。

一方、日本の鈴木貫太郎内閣は同じく敵国であったにも拘らず、戦争終結を模索する立場であり、「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力が極めて優れているからです。その偉大な大統領を失ったアメリカ国民に、深い哀悼の意を送るものであります」と同盟通信社短波放送で、ルーズベルトの死を悼む内容の声明を発表した(ただし朝日新聞報知新聞などの日本の新聞は「伊勢神宮を爆撃した者への神罰」などといった論調が専らであった)。

その他

  • 1921年ポリオに罹り、その後遺症により、下半身がほとんど麻痺し日常生活には車椅子を常用していた(後世の研究では、彼が実際に罹患したのはギラン・バレー症候群であったろうと推測されている)。生前は車いすの姿をマスコミに見られるのを非常に嫌ったため、訪問先の植木や立ち木のカムフラージュのための植え替えなどを神経質なまでに指示した。また、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、TV時代の現代では考えられないことだが、ルーズベルトが健康を害していることは米国民にはほとんど知られなかった。実際、彼の車椅子姿の写真は2枚しか知られていない。
  • 2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられたが、幾人かはこれを不必要なポリティカル・コレクトネスだとして非難した。
  • ルーズベルトは切手収集家としても有名であった。そのため在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、これを実現させるのみならず、(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、韓国も含む枢軸国に占領された国の国旗切手など)デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、切手カタログへの図版掲載に柔軟に対応できるよう法改正を進めた(これ以前は、たとえモノクロであっても切手の一部しか掲載することはできなかった)ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、切手や彼が導入した施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている。またモナコで戦後発行された彼の追悼切手には切手を整理する姿が描かれている。


マルチメディア

ファイル:FDR video montage.ogg
ルーズベルトの映像集
  • ルーズベルトの対日宣戦布告演説
    ファイル:Roosevelt Pearl Harbor.ogg
    連邦議会、1941年12月8日。(3.1 MB、ogg/Vorbis 形式)
  • "A date which will live in infamy"
    ファイル:Roosevelt Infamy.ogg
    同演説の "A date which will live in infamy"「屈辱のもとに生きる日」という有名な箇所。(168 KB、ogg/Vorbis 形式)
  • うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。

フランクリン・ルーズベルトが登場する作品

映画

脚注

  1. ^ 歴代アメリカ合衆国大統領のランキングに拠れば各種調査でほぼ上位5傑に入っている。
  2. ^ 東久邇日記
  3. ^ Freidel, Frank. Franklin D. Roosevelt (4 vol 1952–73), the most detailed scholarly biography; ends in 1934.
  4. ^ 産経新聞平成11年7月15日

関連項目

外部リンク

ウィキクォートフランクリン・デラノ・ルーズベルトに関する引用句集があります。
ウィキソースフランクリン・ルーズベルトの著作の英語原文があります。

スピーチ

その他

先代:
ハーバート・フーヴァー
アメリカ合衆国大統領
1933 - 1945
次代:
ハリー・S・トルーマン

 

Toutes les traductions de フランクリン・ルーズベルト


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