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Significations et usages de フン族

Définition

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Locutions

Wikipedia

フン族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フン族を描いた19世紀の歴史画
フン帝国は中央アジアステップから現代のドイツ黒海からバルト海にまで広がっていた

フン族フンぞく, Hun)はヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり[1]テュルク系民族ユーラシア大陸にまたがる最初の拡張であろう[2][3]。フン族の起源と言語(en)は数世紀にわたり議論の的になっている。現在の学説では彼らの指導者たちの名はテュルク諸語で表されているとされている[4][5]。彼らの主な軍事技術は騎乗弓射である。

フン族は民族大移動を誘発し、西ローマ帝国崩壊の要因となった。フン族はアッティラの元で統一帝国を築いたが、453年に彼が死ぬとその翌年に帝国は瓦解した。同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀東ヨーロッパ中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。

目次

起源

同時代の歴史家ヨルダネス(en)はフン族の起源をゴート族魔女と不浄な魂との交合によるものであると述べている[6]

4世紀にヨーロッパに現れたフン族と1世紀モンゴル地方から移動した匈奴(現代中国語ではション・ヌーに近い発音であるが、古中国語ではHungnu, フンヌと発音すると推定されている)のうち北匈奴と同一の部族とする説が非常に有名であり、フン族について語られる時、大抵は言及される。しかしながら、決定的な証拠は今だなく、18世紀にジョゼフ・ド・ギーニュ(en)が最初に提唱した時からでさえ議論になっていた。

この論拠は事実上名称の類似のみであり、大半の学者はフン族と匈奴の関連性について、断定的な態度はとっていない。遊牧民の集団は首長家の婚姻や政治的連合によって集団構成要素が容易に変動するため、フン族集団が匈奴の西走集団と系譜的につながるとしても、中国北方で活動した匈奴国家の部民がそのままの形で西方にフン族として登場した可能性は疑問視されている。西ゴート族襲撃以前のフン族について、正確に分かることは何も無いのが現状である。王名などの分析から言語学的にはモンゴルに属するという説があるがそれ以外の言語学的資料も少なく不詳である。

フン族の移動については、当時の北アジア中央アジアに至る草原地帯の地域的気候変動が遊牧経済に打撃を与えたことが彼らの大移動の要因になっているとする説がある。また前述のフン族=匈奴説を支持する立場からは、前漢が匈奴を討った事により、その匈奴の一部が西方に逃れてフン族となったと言われる事もある。

歴史

フン族の西方への移動の推定図

アッティラ以前

139年ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(ΧοῦνοιまたはΧουνοἰ)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族(en)とロクソラン族(en)の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」 (Χοῦνοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (Χοῦνοι) と「ウーノイ」(Ουννοι) の類似は偶然である可能性もある[7]5世紀アルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツ(en)は「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。

フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年頃に黒海北方に到来した。フン族はヴォルガ川を越えてアラン族を攻撃して彼らを服従させた。歴史家ヨルダネスによるとバランベル(en)(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている[7])に率いられたフン族はグルツンギ(en)(東ゴート族)の集落を襲撃した[7]。グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメール(Vithimiris)が後を継いだ。376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した[7] 。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus)はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウス(en)とサフラスク(en)に委ねられた。難民はドニエストル川西方のテルヴィンギ(en)(西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。

フン族の都市包囲戦を騎士道的空想に基づいて描いた14世紀の絵画。注)武器と鎧と都市は時代錯誤である。ハンガリーのChronicon Pictum1360年

逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族はアタナリック王(en)の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキアへそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。

395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[7]。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを却略した。彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、ユーフラテスの属州を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年に宦官エウトロペ(en)がローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。

一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年のラダガイスス(en)率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年ヴァンダル族スエビ族そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである[7]。この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマそしてゴート族の傭兵として雇われていた。ウルディン(個人名が知られる初めてのフン族[7])はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族のガイナス(en)の首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープルで晒された。

フン族による略奪。ジョルジュ・ロシュグロス(en)画。1910年

408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた[8][9]。それから程なく、ウルディンは死去している。

西ゴート王アラリック1世の義弟アタウルフ(en)は409年にジューリア・アルプス山脈南方でフン族の傭兵を雇っていたようである。彼らは皇帝ホノリウスの最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。409年後半に西ローマ帝国はアラリックを防ぐためにイタリアとダルマチアに数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。

410年頃にフン族はドナウ川中流域の平原を制圧した[10]。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃にフン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ[11]

一方で、フン族は西ローマ帝国の将軍アエティウス(少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。433年、フン族は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母后ガッラ・プラキディアとの内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア(とイリュリクムの一部)の支配を西ローマ帝国に認められた[12]

アッティラ統治下の統一帝国

詳細は「アッティラ」を参照

アッティラのレリーフ。[13]

アッティラの指導の元でフン族は複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立した。フン族はローマ諸都市からの略奪と貢納金によって富を蓄えて、ゲピード族(en)、スキール族(en)、ルギイ族(en)、サルマタイ族東ゴート族といった従属部族の忠誠を維持していた。フン族の状況に関する唯一の長文の直接的な文書はアッティラへの使節の一員だったプリスクス(en)によるものである。

434年ルーア王が死去して、甥のブレダアッティラの兄弟が共同王位に就いた。即位直後にブレダとアッティラは東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結んだものの、440年に和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を荒らしまわった。東ローマ帝国軍は敗退し、443年に皇帝テオドシウス2世は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされた。445年頃にブレダが死にアッティラの単独統治となった。447年、アッティラは再び東ローマ領侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破している。

レオ1世とアッティラの会見
ラファエロ画。

451年、アッティラは西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラはアエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリクス1世(en)が戦死するなど損害も多く追撃はできなかった。

452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す。(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている[14][15][16])。

パンノニアに帰還したアッティラは再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した(脳溢血または脳梗塞という説が有力である)。

ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用。ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれる切っ掛けになったとされる。

アッティラ以後

5世紀の蛮族の侵入372年から375年のフン族による両ゴート王国破壊が契機になっている。ローマ410年西ゴート族455年ヴァンダル族に掠奪された。

アッティラの死後、彼の息子のエラク(en)が兄弟のデンキジック(en)およびイルナック(en)との争いに勝ってフン族の王となった。 だが、従属部族たちがゲピード族長アルダリック(en)の元に集まり、454年にネダオ川でフン族に挑んだ(en)。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。パンノニア平野は東ゴート族にトランシルヴァニアはゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した[17]

後代の歴史家たちはアッティラの民たちの離散と解明についての一瞥を提供している。伝統に従ってエラクの死後、彼の兄弟たちは二つに分離しているが近く関係する遊牧集団を黒海北方の平原で率いた。デンキジックはクトリグール・ブルガル族(en)およびウトリグール・ブルガル族(en)の王(カーン)となったと信じられ、一方、プリスクスはクトリグール族とウトリグール族はイルナックの二人の息子に率いられ彼らにちなんで名づけられたと主張している。このような区別は不明確であり、そして状況はそれほど明快ではなさそうである。

デンキジックとイルナックに率いられたフン族の一部はパンノニアの東ゴート族に復讐を挑むが撃退され、ダキア・リペンシス(en)やスキュティア・ミノル(en)といった東ローマ帝国領へ避難した[18]。おそらく、その他のフン族と遊牧集団はステップへ撤退した。事実、その後、クトリグール族、ウトリグール族、オグール族(Onogur)、サダギール族(Sarigur)と云った新たな同盟が出現し、これらはひとまとめに「フン族」と呼ばれている。同時に6世紀のスラブ人たちもプロコピオスによってフン族として紹介されている。

指導者

※アッティラ以前のフン族の指導者については不明な点が多く、諸説ある。

名前治世備考
バランベル(en)360年 - 378年?その実在は疑われている[7]
バルタザール(en)378年 - 390年?
ウルディン390年 - 411年フン族全体を統べる指導者ではなく、複数いたフン族の族長の一人と考えられる[19][20][21]
ドナート410年 - 412年ウルディンの後継者。
カラト(en)410年 - 422年ウルディンとは別系統。
アッティラにつながる系統の初代フン王とされる。
オクタル(en)425年 - 430年?
ルーア420年代[22]または432年 [23]
- 434年
弟オクタルとの共同統治で、420年代に初めてフン族全体の統治を形づくったとの見方もある[24]
ブレダとアッティラの伯父。
ブレダ434年 - 445年?アッティラの兄、アッティラと共同統治
アッティラ434年 - 453年
エラク(en)453年 - 454年
デンキジック(en)458年 - 469年
イルナック(en)469年 - 503年

社会

フン族の野営地の想像画。[25]19世紀

外見

ファイル:Hunnu.gif
フン族の騎兵

ゴート族出身の歴史家ヨルダネスはフン族について以下のように述べている。

「元々は沼沢地に住んでいた野蛮な種族で矮小で汚らしく、弱々しい部族であり、かろうじて人間で、そして他者をうんざりさせる言語だが、僅かに人間の言葉に似ている。フン族は恐怖によって敵を逃げ出させた。なぜなら彼らの浅黒い顔つきは恐ろしく、そして彼らは寧ろ巨大な不細工な塊とも言うべき顔、針の孔とも言うべき眼である。彼らの強健さはその野蛮な外見に現われており、惨たらしいことに彼らは赤子が生まれたその日に剣で男子の頬を切開し、彼らは母乳の滋養を受ける前に傷を耐えることを学ばねばならない。従って成年になってもその切痕のために鬚なしの醜態の相を示す。彼らの背丈は短く、身動きは素早く、機敏な騎手で、肩幅は広く、弓矢を用いるのに巧みであり、そして誇りを持って常に直立した頑丈な首を持っている。彼らは人間の形をしているが、野獣の獰猛さを有している。」[26]

フン王アッティラと会見した東ローマ帝国のプリスクスの所伝を引用したヨルダネスは「アッティラは背が低く、胸は広く、巨大な顔を持ち、眼は小さくて落ちくぼみ、髯は薄く、鼻は低く、顔色は黒ずんでいた」と記しており、フンがモンゴル型の種族であったことを示している。

上述のフンがモンゴル型であることを裏付けるように、L・バルトゥチ、E・クレチマリク、V・レープツェルター等のフン・アヴァール墳墓発掘調査の解剖学的調査によって明らかとなる。調査の結果、墳墓からはアヴァール人と思われるブリヤートモンゴロイド人骨の他に、フンの支配層と思われるツングース系の人骨が発見された。これによりフン族の平均身長は男子が164センチ、女子が153センチで、毛髪は黒色で直毛であることがわかった。

文化と習慣

フン族の大釜

4世紀の歴史家マルケリヌス・アンミアヌスはフン族の生活習慣について「食料を煮たり焼いたりせずに生のままで食べ、鞍の下に蓄えた腐肉も食する。女子供は常に荷車の中で生活し育てられる」と述べてる[27]

フン族の弓矢の複製品:屈曲型短弓複合弓

フン族は牛、馬そして山羊と羊の群れを飼っていた[7]。彼らの他の食料源は狩猟と野草の採集だった。衣類は山羊の皮からつくった丸い帽子、ズボンまたレギンスと亜麻または齧歯類の皮の上着を着ていた。アンミアヌスはフン族はこれらの衣類がぼろぼろになるまで着ていたと伝えている。戦闘では彼らは弓と投げ槍を用いた。矢じりと槍先は骨でつくられていた。また、接近戦では鉄剣と投げ縄を用いた。フン族の剣は長く、真っ直ぐな両刃のサーサーン朝形式のものである[28] 。フン族の中の地位の象徴は金箔の弓である[28]

彼らは男児の顔を剣で切るスカリフィケーション(傷による身体装飾)を行う。その他の一般的なフン族の習慣は顔面を広げて敵に恐怖心を与えるために幼児の頃から子供の鼻を縛り付けて平たくすることである。発掘されたフン族の頭蓋骨は幼児期に頭を儀式的に縛り付けた結果である人工的な頭蓋骨奇形の証拠を示している[29]

フン族はこの時代の他の蛮族と異なり、ヨーロッパに入ってからも定住生活を行わず、遊牧による移動生活を続けていた[30]。アッティラの時代になるとフン族社会の経済は遊牧ではなく、略奪と従属部族からの搾取によって成り立っていたと考えられている[31]

アンミアヌスはフン族には王はおらず貴族たちに率いられていると述べている。重大な事柄については、彼らは会議を開き、馬上で議論する。ルーア王の頃にフン族全体をまとめる王権が形づくられ[32]、次のアッティラ王の時代に全盛期を迎えた。

フン族の人口はローマ側の史料では女子供を含めた60~70万人とあるが[33]、現代の研究者は実際の人口はかなり少なく、兵力は数千騎程度だったと考えている[34][35]

言語

フンの言語はドイツのJ・クラプロートにより長らくフィノウグール語と考えられてきた。日本白鳥庫吉もこの説に基づき、匈奴=フン説を否定している(フィノウグール語がウラル系のウグール人であるのに対し、匈奴はアルタイ系蒙古人とされたため)。そもそもクラプロートがフン語をフィノウグール語と断定したのは、東ローマの僧が「ハンガリー人はフンと同一民族である」と伝え、ハンガリーの古記録も同様のことを伝えていたこと、フンの種族名の一つにOungri/Ougri(ハンガリー)とあることによる。しかし、ハンガリーのヴァーンベーリは『マジャール人の起源』(1882年)において、フン語=トルコ語であるとした。その後様々な研究者によってフン語=トルコ語説が支持され、その中でもM・A・アリストフはチュヴァシ人(フンの子孫とされている)の言語がフィノウグール語の影響を受けてはいるが、トルコ語がその語幹をなしていると論じた。しかしその説もポッペにより否定され、フン語はアルタイ諸語蒙古語でもトルコ語でもない別の言語であるとした。この説を更にバルトリドが肯定し、フン語はプリミチブトルコ語とチュヴァシ語が分岐する前のチュヴァシトルコプリミチブ語であるとした。いずれにせよ現在においてフン語はウラル語族ではなく、アルタイ諸語に分類されることがわかる。

民族系統

フン=匈奴説

初めフン=匈奴説は、17~18世紀の中国に渡来したフランスイエズス会宣教師のクロード、ヴィスデルー、アントワヌ、ゴービル等が唱えたものである。そしてコレージュ・ド・フランス教授のジョゼフ・ド・ギーニュが『フン・トルコ・モーコ通史』(1756年)において、民族名の類似、民族性の一致、中国文献に見える匈奴の西遷時期経路とヨーロッパ史料に見えるフンの欧州出現時期の合致等を詳論して、フンが匈奴の子孫であることを具体的に主張した。

250年頃の匈奴の領域

さらに、ミュンヘン大学のF・ヒルト博士は『ヴォルガフンネンと匈奴について』(1899年)において、『魏書』西域伝に見える「粟特国」を、アッティラの死後フンが退居したクリミア半島の「スグダク」に比定し、西史に見える「フンのアラン族征服」を、『魏書』西域伝の「匈奴の奄蔡(阿蘭)征服」に比定し、「フルナス(アッティラの末子)」を「忽倪」に比定した。また、『魏書』西域伝に見える「(粟特国の)別名は溫那沙」に注目したJ・マルカルトは『ブルガール王侯表中に於ける非スラブ的表現』(1910年)において、「溫那沙=Un-na-sa」の「-sa」の中に、オセット語接尾語「ston」、アラン語の「stān」が存在すると論じ、「溫那沙」はアラン語またはペルシャ語の「Hūnastān」すなわち「フンの国」の音訳であるとし、ヒルト説を補強した。その後もさまざまな研究者によってフン=匈奴説が支持され証明された。

しかし、これに反対する研究者もいた。日本の白鳥庫吉は「粟特国はスグダクではなくソグディアナであり、匈奴が粟特国を征服したとあるのは、フンがアランを征服したのではなく、エフタルがソグディアナを征服した記述である」とし、ドイツのJ・クラプロートは「フンの言語はフィノ・ウグル語であるのに、匈奴の言語はテュルク語であって両者は言語を異にする異民族である」とした。

近代民族集団形成論的解釈

4世紀のヨーロッパのフン族がどこから来たのか明確な回答を与える歴史記録は存在しない。同時代の歴史家アンミアヌスは「氷結した大海に近い北方からやって来た」と述べており、フィン・ウゴル語族起源を示唆している[36]。現代の理解では[37]歴史上の大草原における部族連合 は民族的に同種ではなく[37]、むしろテュルク語族エニセイ語族(en)、ツングース語族、ウゴル語族(en)、イラン語族[38]モンゴル語族などのような多民族の連合である。これはフン族も同様であることを示唆している[37]。威信と名声に基づいて多くの氏族が自らをフン族であると主張したであろうし、それは彼らの共通の特徴や信じられていた起源の場所、評判を記述した部外者のためである[37]。同様にギリシャ語やラテン語の年代記編纂者たちも「フン族」という名称を「蛮族」と同様により大まかな感覚で用いていた。

これらの要素によって、同様の集団の中に民族的な均質性がなく、そして外部の年代記編纂者たちによるフン族の名称との相関関係から、多くの現代の歴史家たちはフン族の起源の説明について民族集団形成(en:Ethnogenesis)のアプローチに向かった。民族集団形成のアプローチでは集団が単一の土地を起源とするか単一の歴史を持つ言語学的または遺伝学的に均質の部族を想定しない。 寧ろ貴族階級の戦士たちの小集団が土地から土地へ、世代から世代へと民族的な慣習を受け継ぐであろうとしている。臣下たちはこれら伝統の中枢の周辺に合同したり、離散したりする。フン族の民族性はこれらの集団に受け入れさせることを必要とするが、その際に「部族」の中から生まれたことは必要条件ではない。「私たちが差支えなく言えることは古代末期(4世紀)におけるフン族の名称は草原の戦士の名声のある支配集団を表現していると云うことである」と歴史学者ヴァルター・ポールは述べている[37]

後継国家

フン王ブレダの名に由来するブダ城

フン帝国の崩壊後、フン族は東ヨーロッパ一帯に子孫を残したが、彼らがかつての栄光を取り戻すことはなかった。その理由の一つはブルガール人やマジャル人、金帳汗国と異なり、フン族が税制や官僚制度といった完全な国家機構を確立することがなかったためである。いったん組織が崩れると、フン族はより組織化された政治体に吸収されてしまった。彼らの後のアヴァール人と異なり、一度フン族の政治的統一が崩れると、フン族はアッティラを頂く多民族帝国になっていたため、それを再建する手段はなかった。フン族は(少なくとも通常は)様々な人々の大群を含んでおり、彼らの各々が自らをフン族の「子孫」であると考えていた。しかしながら、フン族は固有の人民や国家ではなく政治的産物あったので、454年の敗北がこの政治体の終わりとなった。その後に発生した新たな政治体は以前のフン族連合の人々から構成されており、同じステップ文化を継承していたが、彼らは新たな政治的産物である。

後の多くの国々がフン族の民族的、文化的後継者であると主張している。ブルガール王侯表(en)はブルガリア王家がアッティラの子孫であると信じていたことを示している。ブルガール人はおそらくフン族の民族同盟の主要構成員であったであろう。フン族とブルガール人の文化には幾つかの類似があり、例えば人工的頭蓋変形の習慣などの考古学的証拠は両者の強い連続性を示唆する。フン族とブルガール人の最も特徴的な武器(複合弓や長く垂直の両刃の剣など)はその外観がほとんど同じである。何人かの学者はチュヴァシ語ブルガール語の後裔であると信じられている)はフン語(en)に最も近い同族言語であると仮説を立てた[39]

マジャル人(ハンガリー人)はフン族の相続者たるを特に強く主張している[40]。マジャル族はフン部族連合が消滅した約450年後の9世紀末に現在のハンガリー地方に定住し始めたのだが、マジャル起源伝説を含むハンガリー先史時代(en)は幾つかの歴史的事実を残しているとされる。ヨーロッパを侵略したフン族は様々な人々の緩やかな連合を代表し、マジャル人の幾らかもその一部であったろうし、または後になって依然としてフン族を名乗っていたアッティラの子孫に参加したのかもしれない。確定的な歴史学的または考古学的証拠がないにも関わらず、賛称(ハンガリー国歌)はハンガリー人を「ムンズク(Bendegúz:en)の血統」(アッティラの父)であると述べている。アッティラの兄ブレダBleda)は現在のハンガリー語ではブダ(Buda)と呼ばれている。ブダペスト西側のブダ地区は彼の名に由来するとされている。20世紀前半まで、ハンガリーの歴史学者の多くはセーケイ人はフン族の後裔であると信じていたが、現在では学界の一般的見解ではない。

伝説

聖ウルスラの受難』。結婚を拒否した聖ウルスラを矢で突き刺すフン王。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ画、1610年。

フン族の征服の記憶はゲルマン民族の中で口伝伝承され、古ノルド語ヴォルスンガ・サガヘルヴォルとヘイズレク王のサガそして中高ドイツ語ニーベルンゲンの歌の重要な構成要素となった。これらはの物語は千年紀前半の民族移動時代の事件を題材としている。

ヘルヴォルとヘイズレク王のサガではゴート族は弓を巧みに扱うフン族とはじめて接触し、ドナウ川の平原で勇壮な戦闘を行う。

ニーベルンゲンの歌ではブルグント王グンテルの陰謀により重臣ハゲネに夫ジーフリトを殺されたクリエムヒルトはフン族の王エッツェル(アッティラ)と結婚する。その後、彼女はエッツェルの妻としての権力を用いてハゲネとグンテル王だけでなく全てのブルグント騎士に血なまぐさい復讐を行った。

ヴォルスンガ・サガではアッティラはフランク王ジゲベルト1世(en)とブルグント王グントラム(en)を打ち負かしたが、グントラムの妹でジゲベルトの王妃だったフレデグンド(en)に暗殺された。

中世のキリスト教伝説では、1万1千人の処女とともに巡礼の旅に出た聖ウルスラはフン族に襲われ、聖ウルスラはフン王の矢で射殺され、1万1千人の処女たちは虐殺されている。

16世紀のノルウェー南部の農民反乱において、叛徒たちは法廷で「フン王アトル(Atle)」が大軍とともに北から来援することを期待していたと主張している。

第一次世界大戦時のイギリスの対独プロパガンダのポスター。敵国ドイツを"Hun"と形容している。

近代になって、フン族(Hun)の名称は第一次世界大戦第二次世界大戦におけるドイツの渾名として用いられた[41]1900年義和団の乱に際してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が「敵に対してフン族のように容赦するな」と将兵に命じた[42]。この演説が第一次世界大戦の際にドイツ人の野蛮性を強調すべく、連合国に利用された。第二次世界大戦でも連合国の人々は同じ様にドイツ人を形容している。

脚注

  1. ^ De Guignes, Joseph (1756-1758), Histoire générale des Huns, des Turcs, des Mongols et des autres Tartares 
  2. ^ Frucht, Richard C., Eastern Europe, (ABC-CLIO, 2005), 744.
  3. ^ Transylvania through the age of migrations
  4. ^ Pritsak, Omeljan. 1982 "The Hunnic Language of the Attila Clan." Harvard Ukrainian Studies, vol. 6, pp. 428–476.[1]
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  12. ^ 「アッチラとフン族」p61
  13. ^ 16世紀製作:チェルトーザ・ディ・パヴィーア修道院 (en
  14. ^ 「アッチラとフン族」p123-124
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  17. ^ 「アッチラとフン族」p130
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    "Formerly, scholars considered en:Chuvash probably spoken by the Huns."
  40. ^ 「アッチラとフン族」p7-9
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  42. ^ Weser-Zeitung, July 28, 1900, second morning edition, p. 1: 'Wie vor tausend Jahren die Hunnen unter ihrem König Etzel sich einen Namen gemacht, der sie noch jetzt in der Überlieferung gewaltig erscheinen läßt, so möge der Name Deutschland in China in einer solchen Weise bekannt werden, daß niemals wieder ein Chinese es wagt, etwa einen Deutschen auch nur schiel anzusehen'.

参考文献

  • Otto J. Mänchen-Helfen (ed. Max Knight): The World of the Huns: Studies in Their History and Culture (Berkeley, University of California Press, 1973) ISBN 0-520-01596-7
  • Maenchen-Helfen, Otto (1944-1945), “The Legend of the Origin of the Huns”, Byzantion 17: 244–251 
  • E. A. Thompson: A History of Attila and the Huns (London, Oxford University Press, 1948)
  • de la Vaissière, E. "Huns et Xiongnu", Central Asiatic Journal, 2005-1, p. 3-26.
  • Lindner, Rudi Paul. "Nomadism, Horses and Huns", Past and Present, No. 92. (Aug., 1981), pp. 3–19.
  • J. Webster: The Huns and Existentialist Thought (Loudonville, Siena College Press, 2006)
  • 内田吟風『北アジア史研究』(同朋舎出版、1988年)ISBN 978-4810406276
  • ルイ・アンビス著、安斎和雄訳「アッチラとフン族」(白水社、1973年)ISBN 978-4560055366
  • E・A・トンプソン著、木村伸義訳「フン族―謎の古代帝国の興亡史」(法政大学出版局、1999年)ISBN 978-4588371080
  • トマス・クローウェル著、 蔵持不三也訳「図説 蛮族の歴史 ~世界史を変えた侵略者たち」(原書房、2009年)ISBN 978-4562042975
  • ピエール・リシェ著、久野浩訳「蛮族の侵入―ゲルマン大移動時代」(白水社、1974年)ISBN 978-4560055670

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