ヘーチマン国家
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- ヘーチマン国家
「ザポロージャのコサック軍」 - Військо Запорозьке
← 1649年 - 1764年 → 国旗 国章
1649年から1667年にかけてのヘーチマン国家の領域。公用語 ウクライナ語 首都 チヒルィーン、バトゥールィン、フルーヒウ 通貨 東ヨーロッパの全通貨
目次 |
国家の誕生
ヘーチマン国家の建国のきっかけは、1648年にポーランド・リトアニア共和国の領土であったウクライナで始まったフメリヌィーツィクィイの乱である。ウクライナ・コサックは現地の大公たちと大貴族(マグナート)の支配に対して大きな反感を抱き、ザポロージャ・コサックの棟梁(ヘーチマン)であるボフダン・フメリヌィーツィクィイ[1]の下、政府に対して反旗を翻した。コサック軍はジョーウチ・ヴォードィの戦い、コールスニの戦い、そしてプィリャーウツィの戦いで官軍を破ったことにより、広範な支持を取り付けた。反乱はウクライナ全土に拡大し、コサックのみならず多数のウクライナの町人・農民さえフメリヌィーツィクィイの軍勢に加わった。1649年にはポーランド・リトアニア共和国は連敗に連敗を重ね、ウクライナの中央にあったキエフ県・チェルニーヒウ県・ブラツラウ県をコサックに明け渡し、コサックの自治権を認めて平和条約を結ぶことを余儀なくされた。
法律上ではウクライナ・コサックはポーランド・リトアニア共和国の保護の下で置かれていたが、事実上は独立した政権として存在していた。コサックの頭領であったへーチマンは、コサックの域内では内政権と外交権をもち、反乱参加者の内からもっとも有力な武将を中心に政府を作った。コサックの国は「ポールク」(полк:「連隊」)という行政単位に分かれ、外敵にいつでも打ち向かうことができるように強い軍事的性格を保ちつづけていた。首都はチヒルィーンに置かれた。国内の経済を活発化させるためすべての税はコサック政府に集められ、独自の硬貨も鋳造されるようになった。
しかし、ポーランド・リトアニア共和国にとってはウクライナ・コサックの自治は、結局は許容しがたいものであった。この前、ポーランド・リトアニア共和国とオスマン帝国は長年の戦争を終えて平和条約を結んでおり、共和国側の人間がオスマン・トルコ領へ侵入して略奪行為を行うことを厳しく禁止していた。しかしそういった略奪行為はウクライナ・コサックたちの昔からの伝統的な生活の一部であり、略奪先で捕獲した人々を奴隷として売買する取引は彼らコサックたちの貴重な収入源だったのである。トルコ領への侵入・略奪行為が禁止されたことでウクライナ・コサックたちがポーランド・リトアニア共和国に対して反乱(フメリニツキーの乱)を起こした結果がヘーチマン国家の成立であった。問題は、ヘーチマン国家がポーランド・リトアニア共和国内で自治権を獲得したとはいえ、法律上その国家はポーランド・リトアニア共和国の主権下にあり、これはウクライナ・コサックたちがポーランド・リトアニア共和国の国民であることを意味した。ヘーチマン国家のコサックたちが「伝統的な経済活動」を自由に行えるようになると、ヘーチマン国家の責任者であるポーランド・リトアニア共和国の外交、特にオスマン帝国との外交にとって非常にまずいことになったのである。
ポーランド・リトアニア共和国は国力の回復を待ち、1650年にウクライナ・コサックとの条約を破棄してコサック討伐戦争を開始したが、それは失敗に終わった。この戦争の結果、ポーランド・リトアニア共和国は中央ウクライナの支配を最終的に失い、コサックの国家は連合と敵対関係にあったスウェーデン・オスマン帝国・トランシルヴァニア公国・モスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)と手を結んで国際的に独立国家として承認されたのである。このような経緯から、フメリヌィーツィクィイの蜂起とヘーチマン国家の成立は連合崩壊の端緒となり、1655年にはスウェーデンがポーランド領内に侵攻して、のちに「大洪水時代」と呼ばれることになった大きな戦乱時代が幕を開けた。
モスクワ大公国の保護
国家組成
ヘーチマン国家の国家構造は、そのコサック軍的な要素で特徴付けられている。国家元首はコサックの長であるヘーチマンが担い、その下でコサック軍の軍隊階級に準じた役職が各階層でラーダ(会議)を持ち、国家の運営に当たった。
ヘーチマンの下でコサック軍の軍隊階級に準じた役職が各階層でラーダ(会議)を持ち、国家の運営に当たった。ヘーチマンの下には、ヘーチマン・ラーダが置かれた。ヘーチマンの側近はヘネラーリナ・スタルシーナ(大長老衆)と呼ばれ、ヘネラーリヌィイ・オボーズヌィイ(大輜重官、軍隊では大将相当)、ヘネラーリヌィイ・スッヂャー(大裁判官)、ヘネラーリヌィイ・プィーサル(大書記官)、ヘネラーリヌィイ・ピドスカールビイ(大主計官)、ヘネラーリヌィイ・ホルーンジイ(大軍旗手官、軍隊では中将相当)、ヘネラーリヌィイ・ブンチュージュヌィイ(大ブンチューク手官、軍隊では少将相当)、2人のヘネラーリヌィイ・オサヴール(大オサヴール、軍隊の階級名)からなっていた。大長老衆は、選挙によって選出された。この他、臨時職としてナカーズヌィイ・ヘーチマン(任命ヘーチマン、ヘーチマンの代官)が置かれたこともあった。
こうした役職は、それぞれ国の行政、司法、立法、軍事、外交などを司った。その最高機関はヘネラーリナ・ヴィイシコーヴァ・ラーダ(大軍事会議)で、ヘネラーリナ・スタルシーナによって運営された。ヘネラーリヌィイ・スッヂャーは、最高司法機関であるヘネラーリヌィイ・ヴィイシコーヴィイ・スード(大軍事法廷)を運営した。ヘネラーリヌィイ・プィーサルは、最高行政機関であるヘネラーリナ・ヴィイシコーヴァ・カンツェリャーリヤ(大軍事行政府)を運営した。ヘネラーリヌィイ・ピドスカールビイは、ヘネラーリナ・スカルボーヴァー・カンツェリャーリヤ(大主計行政府)を運営した。
ヘネラーリナ・スタルシーナの下には、ヴィイシコーヴァ・スタルシーナ(軍事長老衆)が置かれた。その下に置かれたのがポルコーウヌィク(軍隊では大佐相当)であった。ポルコーウヌィクはポルコーヴァ・ラーダ(連隊会議)を持ち、国家の基幹である「ポールク」を運営した。その下には、ソートニャ(百人隊)を運営するソートヌィク、最小単位であるクリーニを運営するクリンヌィーイ・オタマーン(クリーニの棟梁)が置かれた。こうした組織は、それぞれにラーダを持っていた。
ヘーチマンの一覧
「ザポロージャのコサック軍」のヘーチマン | |||||||
番 | 画像 | 名前(日本語) | 名前(ウクライナ語) | 在位 | 紋章 | 備考 | |
1 | ボフダン・フメリヌィーツィクィイ | Богдан Хмельницький | 1648年 - 1657年 | ||||
2 | ファイル:Iwan Wyhowski.PNG | イヴァン・ヴィホーウシクィイ | Іван Виговський | 1657年 - 1659年 | |||
3 | イヴァン・ベズパールィイ | Іван Безпалий | 1659年 | 任命ヘーチマン | |||
4 | ユーリイ・フメリヌィーツィクィイ | Юрій Хмельницький | 1659年 - 1663年 | 一度目 | |||
5 | ヤクィム・ソムコ | Яким Сомко | 1663年 | 左岸ウクライナ (任命ヘーチマン) | |||
6 | パウロー・テテーリャ | Павло Тетеря | 1663年 - 1665年 | 右岸ウクライナ | |||
7 | イヴァン・ブリュホヴェーツィクィイ | Іван Брюховецький | 1663年 - 1668年 | 左岸ウクライナ | |||
8 | ダヌィーロ・イェルモーレンコ | Данило Єрмоленко | 1665年 | 左岸ウクライナ (任命ヘーチマン) | |||
9 | ステパン・オパラ | Степан Опара | 1665年 | 右岸ウクライナ | |||
10 | ペトロー・ドロシェーンコ | Петро Дорошенко | 1665年 - 1676年 | 右岸ウクライナ | |||
11 | ムィハーイロ・ハネンコ | Михайло Ханенко | 1669年 - 1674年 | 右岸ウクライナ | |||
12 | デミヤーン・ムノホヒリーシュヌィイ | Дем'ян Многогрішний | 1669年 - 1672年 | 左岸ウクライナ | |||
13 | オスターフィイ・ホーホリ | Остафій Гоголь | 1676年 - 1677年 | 二度目 右岸ウクライナ | |||
13 | ユーリイ・フメリヌィーツィクィイ | Юрій Хмельницький | 1677年 - 1681年 | 二度目 右岸ウクライナ | |||
14 | イヴァン・サモイローヴィチ | Іван Самойлович | 1672年 - 1687年 | 左岸ウクライナ | |||
15 | サムーシ・サミーイロ | Самусь Самійло | 1672年 - 1687年 | 右岸ウクライナ (任命ヘーチマン) | |||
16 | イヴァン・マゼーパ | Іван Мазепа | 1687年 - 1709年 | 左岸ウクライナ | |||
17 | イヴァン・スコロパードシクィイ | Іван Скоропадський | 1709年 - 1722年 | 左岸ウクライナ | |||
18 | ファイル:Pylyp Orlyk.PNG | プィルィープ・オールルィク | Пилип Орлик | 1710年 - 1742年 | 右岸ウクライナ (海外) | ||
19 | パウロー・ポルボートク | Павло Полуботок | 1722年 - 1724年 | 左岸ウクライナ | |||
20 | ダヌィーロ・アポーストル | Данило Апостол | 1727年 - 1734年 | 左岸ウクライナ | |||
21 | クィルィーロ・ロズモーウシクィイ | Кирило Розумовський | 1750年 - 1764年 | 左岸ウクライナ |
脚注
関連項目
史料
参考文献
- (日本語) 伊東孝之・井内敏夫・中井和夫(編)『ポーランド・ウクライナ・バルト史』、世界各国史、山川出版社、1998年
- (日本語) 黒川祐次『物語ウクライナの歴史』、中央公論新社、2002年
- (日本語) 栗原典子「ウクライナの登録コサック制度 ウクライナ=コサックの集団意識によせて」『スラヴ文化研究』1号、2001年、125頁~135頁
- (日本語) 志田恭子「帝政ロシアにおける ノヴォロシア・ベッサラビアの成立」
- (ウクライナ語) Микола Крикун。Між війною і радою. Козацтво правобережної України в другій половині XVII — на початку XVIIІ століття. (ミコラ・クリクン著『戦争と会議の間に。17世紀後半-18世紀初期における右岸ウクライナのコサックたち』), К., 2006 р.
- (ウクライナ語) Микола Крикун。Згін населення з Правобережної України в Ліфобережну 1711-1712 років. ミコラ・クリクン. 1711年-1712年における右岸ウクライナから東岸ウクライナへの強制的人口移動
外部リンク
- (ウクライナ語) ウクライナ・コサックの電子百科事典
- (日本語) ウクライナのコサックたち~ヘトマン国家への道~
- (ウクライナ語) へーチマン国家
- (ウクライナ語) ヘーチマンの博物館
- (ウクライナ語) 17-18世紀のコサックのへーチマン国家
- (ウクライナ語) ヘーチマンの一覧
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