愛
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愛(あい)とは、崇高なものから、恋愛、そして欲望に至るまで様々な意味で用いられる概念である。
目次 |
概説
「愛」の意味は、時代とともに多様化してきている。
最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、その後、現代の多様な用法まで、歴史に沿って解説する。
辞典などでの解説、主要な語義
広辞苑では、次のような用法をあげている。
- 親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり[1]。
- 男女間の愛情。恋愛[2]。
- 大切にすること。かわいがること。めでること[3]。
- (キリスト教)神が、自らを犠牲にして、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。[4]
- (仏教)渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる。[5]
[6][7][8][9][10][11][12][13][14]
日本語の「愛」の意味の変遷
日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい[15]、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま[16]、を意味した。[17]
近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「Love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多用な用法が作られてきた。
伝統的な説明、宗教的な説明
キリスト教での愛
キリスト教において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりもアガペーである。そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情(すでに古代ギリシア時代から考えられていた4種類の"愛"、いずれもギリシア語表現)について説明していることが多い。それらは以下のとおり。
- 「エロス」 έρως érōs
- 肉体的な愛。主に男女関係の愛。対象の価値を求める愛。自分本位の愛。見返りを求める愛。
- 「ストルゲー」 στοργή storgē
- 従う愛。尊敬を含む愛。親子関係や師弟関係にある愛。
- 「フィーリア」 φιλία philía
- 友情愛。自分を与えることで他人を生かす愛。
- 「アガペー」 αγάπη agápē
- 無条件の愛。万人に平等な愛。神が私達に与える愛。見返りを求めない愛。キリスト教でいう一般的な「愛」。
キリスト教の愛は、隣人愛によって成立する人類という大きな家族像を示唆している。その隣人愛は、キリストが十字架にかけられ、全人類の(過去と現在と未来永劫の)罪を贖ったことにより実現される愛である。これは、全人類を創り、育て、救う、神の愛を示唆する。人類は神の創造物、神の姿を模った特別な「神の子供達」として、平等であるという点から、自然や組織による差別を超越して、同胞的愛を地上に実現しようとしている、とされる。
キリスト教の神は、聖書の「放蕩息子」の愚かな息子の帰りを純粋に信じ待ち続けた父親のように限りなく寛大な親であり、聖母は全ての人の母として尊敬されるべき慈愛あふれる庇護者であり、全ての人は善きサマリア人のように互いに支え合い、譲り合い許し合い和解すべきとされる。
イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人と見なし赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。
パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charis(ロマ 1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。
西欧の伝統、キリスト教の信仰においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。[18]また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。[19]
仏教での愛
仏教での「愛」には、サンスクリット語でtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種が挙げられる。
- tRSNaa
- 人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。
- 広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。
- また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
- kaama
- kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。
- 仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。
- 密教が空海によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に立川流が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。
- 性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
- preman, sneha
- preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
- 子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。
- 一切衆生に対する愛情の純粋化・理想化されたものを慈悲という。それは仏に成就しているが、一般の人々にも多かれ少なかれ実践できる。
仏教では、[要出典]中心的なテーマは愛ではなく、それは「瞑想の道」とも呼ばれ、愛の道と対比され、探求には愛の実践は含まれないか中心的な重要さはもっていない。しかし、道に到達した時には愛が起きる。例えば、禅の探求には愛は含まれない。しかし、悟りを開いた人々は愛に満ちていることは知られている通りである。
慈悲
愛が更に進化した場合を、慈悲と呼んで区別する場合もある。この場合は愛が状態であり、対象や相手を持たないが、更に愛があふれ出ている。近くに来る人は慈悲を受け取り、愛をいっぱいに受け取ることができるとも言われる。
観音菩薩や聖母マリアは、このような状態の象徴であり、そのような状態を感じることができるように表現されている。
儒教での愛
仁は、人がふたり居るときの完成した愛であるが、孔子は、その実現困難性について「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」といい、愛に生きるならば生命を捧げる覚悟が必要だとした。仁は対人関係において自由な決断により成立する徳である。孔子は仁の根源を血縁愛であるとした(「孝弟なるものはそれ仁の本をなすか」)。そしてこの自己犠牲としての愛と、血縁愛としての自己保存欲との間に、恭(道に対するうやうやしさ)、寛(他者に対する許しとしての寛大)、信(他者に誠実で偽りを言わぬ信)、敏(仕事に対する愛)、恵(哀れな人に対するほどこし)などが錯綜し、仁が形成されるとした。
一方で孔子は「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と述べた。[20]
心理学における説明
コンプレックス症例
家族愛を表す用語としてコンプレックス(抑圧された複合意識)という用語が使われることがある。ただ、こういった用語はその前提となる考えがそれぞれ違うため、単純にイコールにはできない。例えば、エディプスコンプレックスは父親に対する対抗心として母親への愛があり、マザーコンプレックスは単純な母親への感情を意味する。そのため、細かく見ればそれぞれ意味は異なる。
前述のように子供から母親に対する度を過ぎた愛はマザーコンプレックスあるいはエディプスコンプレックスと呼ばれる。また、ジークムント・フロイトは女の子が初め母親に愛情を向けることを指摘し、またカール・グスタフ・ユングは純粋な母親への愛は女性に良く見られると指摘した。一方、母親から子への愛を表す用語は阿闍世コンプレックスと言われる。この用語は母親の無限の愛を前提にする。息子の場合はアグリッピーナコンプレックスと呼ばれることもある。この用語の場合母親の歪んだ息子に対する愛を前提にする。
一方、子供から父親への度を過ぎた愛情はファザーコンプレックスという。女性の場合エレクトラコンプレックスという。この場合は母親への愛の次の段階としての女性の父親に対する愛を意味する。男性の場合オレステスコンプレックスというが、これは母親への愛との重なり合いで苦しめられているという意味合いを含む。父親の息子への度を過ぎた愛はアブラハムコンプレックスという。この場合は息子離れが出来ず、親離れをしようとする息子を憎む意味合いを含む。父親の娘への愛は白雪姫コンプレックスと言われる。これは、母親の嫉妬が背後にある。
兄弟愛、姉妹愛という言葉があるが、これもまた度が過ぎた場合、「シスコン(シスターコンプレックスの略)」「ブラコン(ブラザーコンプレックスの略)」と呼ばれる。親の愛をめぐる心理葛藤として「カインコンプレックス」と呼ばれる場合もある。
愛の特徴
愛は恋や好意に比べ、深く、強く、崇高であると考えるものが多い[要出典]。[21]他の感情に作用しやすく、愛がある故に喜び怒り悲しみ憎しみ嫉妬などの感情が生まれる場合もある。[22][23][24][25][26]
創作活動
[要出典]愛は創作活動の源にもなる。大好きなもののためになら大きな力を発揮できたりする。それに加えて今までの歴史の中で数え切れないほどの愛を題材にした作品が生まれている。[27][28][29]
愛の弊害
[要出典]愛は必ずしもすべて相手にとって好ましい感情とは限らない。それが元で嫉妬など、負の感情が起きることがある。母性愛は往々にして子供をがんじがらめに縛り付けるように働く。
[30][31][32][33][34][35][36][37][38]
愛の対象
人間が抱く「愛」の感情は、必ずしも対象を限定しておらず、その範囲は広大である。「~を愛する」という動詞の表現はかなり広く用いられている。[39][40][41]
自己愛
社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。自分自身を支える基本的な力となる。( 英語でself-love とも。 narcissism の訳語として用いられることもある。)
生まれてきたばかりの赤ん坊は、保護者と接しながら自己と他者の認識を形成する。その過程で(成人するまでに)自身が無条件に受け入れられていると実感することが、自己愛の形成に大きく関与している。「自分が望まれている」事を前提に生活できることは、自身を大切にし自己実現に向かって前進する土台となり得る。また、自己に対する信頼が安定すること、自分という身近な存在を愛せることは、その経験から他者を尊重することにも繋がる。
心理学者らからは、自己愛が育って初めて他人を本当に愛することができるようになる、としばしば指摘されている。自分を愛するように、人を愛することができるという訳である。自分を愛せない間は、人を愛するのは難しいと言われる。
しかし子供によっては、虐待されたり、自身の尊厳を侵されたりするような環境に置かれることがある。この場合、その子供は努力次第で逆境に打ち勝ち、人格者に成長する可能性もあるし、自己愛が希薄な自虐的な性格になるなど可能性もある。もし後者で自己愛を取り戻すには、自身が無条件で受け入れられていると強烈に実感する体験がかぎの一つとなる。
[要出典]自己愛という語は「他人の視点を理解しない一方で自己を肯定する感情」を批判する意味合いで用いられることもある。その意味で自己愛が過剰な人は、自己の欲求(金銭や社会的地位など)を優先して、時に他者に害を為すこともある。「自分が好き=自分勝手」という意味の用法である。
周囲から見て精神的に未熟な者が、恋愛の最中に「恋している自分に恋している」と評されることがある。これは、対象を愛して(気分が舞い上がりなどして)いる自己に酔っている、また、パートナーがいるという優越感に浸っている状態を揶揄するものである。しかし、本人の認識も、他者も、恋愛の対象も、全面的に真に相互的な恋愛感情を抱いていると誤認しやすい。
自己愛にはいくらかの傾向が見出されるが、いずれも全く個別的なものではなく重なり合っていると言えるだろう。
親子間の愛
親子間、特に親が子に対して抱くものも愛であり、性別に応じて「母性愛」、「父性愛」などと呼ばれる。子供は特にその初期には守られなくては生存できない存在であり、親の愛はこれを守り育てる活動の原動力となるものである。ただし、母性愛と父性愛にはやや異なった傾向があるとも言われる。(これらについては、母性・父性の項を参照されたい。)
家族愛
親子、兄弟姉妹、祖父母と孫など肉親同士で発生する場合が多い。血が繋がらなくても養子など家族の形をとれば家族愛は生まれることがある。動物を家族の一員としてとらえる人もいる。
[要出典]家族愛の普遍的な例として、お互いを溺愛しすぎず、両親の尊敬と思い入れが子供にある(親孝行)あるいは親が子供を愛玩的に愛するのではなく、子の人生を社会的にも精神的にも温かく見守るように育てること、兄または姉に対して弟あるいは妹が嫉妬、あるいはライバル心を抱きながらも仲間や同志的な感情と似た感情を抱いたり、兄や姉が妹、弟を精神的にも社会的にも微笑ましく見守るような場合等を「家族愛」と表現する場合が多い。
身近な人物
自分と直接かかわりのある人間だと好意が生まれやすい。異性であれば愛が生まれ恋人になる可能性がある。多くの恩を受けた師であれば師弟愛のようなものが生まれる。隣人愛という言葉もあるがせいぜい好意的に思っている程度だろう。親友の場合は友愛である。距離が離れていても連絡が取れるなら可能性はある。
長く親しんできたもの
自分が長く親しんできたものには愛着が生まれる。自身が所属する分野や組織(人類・国家・地域・宗教・家系・組織・企業・技能分野など)に対してがある。日本では、郷土や祖国、出身校などに対する愛がありうることも比較的広く受け入れられており、それぞれ「郷土愛」「祖国愛」「愛校精神」などと呼ばれている。
支配下にあるもの
所有物などは何でもないようなものでも愛着が生まれやすい。しかし人や生き物を所有物として考えるということがある。親であれば子を自分のものとして扱い思い通りにならなければ怒り出すということがある。生き物を自分のものと考えるのは良くないだろう。愛するものを支配下に置きたいと思うこと、支配下にあるから愛することは良くないことだ。
俳優や歌手など
直接触れ合うことはほとんどない俳優や歌手を愛しているものもいる。本人は尊敬や評価ないし愛着している。作品に登場する人物や生き物を好きなのも触れ合えないという点で似ている。
性と愛
性的な愛、あるいは愛と性をまとめて扱う場合に「性愛」という言葉が使われる例もある。なお、「愛」という言葉は、文脈・状況によっては性交そのものを指す例もある(「いっぱい愛して」など)。
恋とLove
男女間・(同性愛者における)同性間の愛は、日本語においては恋という特別な言葉でも表現できる。愛とほぼ同じ意味で使われることも多い。しかし、恋は必ずしも人間に対してのみ持つ感情ではない。植物、土地、歴史等を恋しく思う場合にも用いられる。
恋と愛の両方を英語ではLoveと表現する。英語におけるLoveと日本語における恋と愛はイコールではない。これは両言語を用いる各種族の歴史観、宗教観、思想の相違による。日本語において「ラブ」「Love」は若者の言語や芸術では恋、愛両方を表す言葉として頻繁に用いられている。
男女間、あるいは同性間の恋については、様々な要因が引き金となって始まると思われる。要因の1つに、10代における身体の性的な成熟がある。この感情が芽生えるまでの少年少女の時期、彼ら彼女らにとって社会や人間関係は未知の世界であると言われている。この感情が芽生えると、寝ても覚めても相手のことで頭がいっぱいになったり、相手との人間関係を普通とは違う特別なものだと感じるようになったりする。人間以外の動物間にもこの感情が芽生えるかどうかについては不明。恋が起こるのには人によってそれぞれの「きっかけ」があり、そのきっかけは人の人生においてとても大事なものになる場合がある。恋愛は結果に関わらず人間性を成長させる要素となる。
人名としての「愛」
日本では主に女性の名で「愛」という字が使われる。有名人の例では、シンガーソングライターの大塚愛、女優の前田愛、飯島愛などがいる。「愛」という名前はそのまま「あい」と読む場合も多々あるが、「愛子(あいこ)」「愛美(まなみ)」など別の字とも組み合わされる。また、「愛(まなみ、めぐみ)」と読む場合もある。具体的には皇族の敬宮愛子内親王などの例がある。名づける動機として、「愛」が表す慈しむ心やかわいらしさを持つ子になってほしいという親の願いが挙げられるだろう。
また、歴史上の人物では徳川家康の最も好んだ側室とも言われる西郷局の名も「愛」(お愛、愛の方)である。第2代征夷大将軍徳川秀忠や尾張国清洲藩主松平(東条)忠吉の生母である。
出典・脚注
- ^ 広辞苑
- ^ 広辞苑
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- ^ 広辞苑
- ^ 日常用語的には、[要出典]感情の一種で、何かの対象を肯定する気持ち、対象に存在意義や価値を見出したり快を感じたりする気持ちであると理解されている。
- ^ [要出典]日本でただ単に「愛」というと、(男女間の)恋愛を指す場合が多い。しかし恋愛と愛は意味が違い愛のほうが恋愛より深いとされる。恋愛は一時的なもの、愛は一生のものというような考え方がある。
- ^ [要出典]そして例えば「私(子供)が母親に家族的な意味で好意をもっている」ということを表す場合、「(私は)母が好きだ」といい、「(私は)母を愛している」とは日常会話的には言わない。しかし言わないだけで家族間には実際に強い繋がり家族愛があることが多いだろう。
- ^ [要出典]愛の対象は人間に限らず、特定の物事に対する愛着(愛好)も(後述の仏教用語におけるtRSNaa तृष्णा に相当)含まれる。例えば、動物や器物を大切にしたり可愛がることを「愛玩」、ある器物を好んで使用することを「愛用」、ある飲料を好んで飲用することを「愛飲」と言う。
- ^ 類似の感情である(としばしば考えられる)好意よりも、深い、強い、崇高であるとされることが多い。だが、これもまた例外が多くあり、定義は容易ではない。
- ^ [要出典]また、恋ともしばしば比較される。恋が一方的な思慕の情を指すのに対して愛は常に相手の立場を慮る心遣いだというのが通説である。
- ^ [要出典]愛や愛に基づいた行為が理想とされることはあるが、時にはある個人または集団の不利益の根源ともなる。そのため愛自体に対する価値判断も定まっていない。
- ^ [要出典]一般に、愛は非常に多義的で複雑な概念であり、普遍的な定義ができない、そのような試みは不毛である、とさえ言われてきた[誰によって?]。
- ^ [要出典]「愛とは何か」という問いを抱く人は多い。愛それ自体は明確に表現できないものであるが、古来から人の心を引きつけてやまない存在でもある。
- ^ 旺文社『古語辞典』
- ^ 旺文社『古語辞典』
- ^ 竹取物語のかぐや姫の昇天の段には「翁をいとほしく愛しとおぼしつることも失せぬ」といった表現もある。
- ^ またさらに、[要出典]「愛は神である」という言葉もある。愛を知ることで、神を知ることができたり、宇宙の神秘を知ることになるとも言われる[誰によって?]。
- ^ [要出典]実際には愛は無条件なのであるが、「無条件ではない大好き」「対象と条件のある愛に似たもの」を「愛」と呼ぶ事が多いので、このようになっている。
- ^ [要出典]これは、恋情や色欲の不安が愛に宿されていることをも看破していたのである。
- ^ 「[要出典]この感情は一般に人間にとってとても大事である」という
- ^ [要出典]愛するものがいるから生きているということ、愛するものを守るために戦うこと、愛するものを失って精神を病むこと、愛するもののために努力することなどが起こることがある。
- ^ [要出典]しばしば信念などと同じく人生の重大な選択を大きく左右する感情ともなり生死にもかかわる。
- ^ 「親が子に抱く愛や人が恋人に抱く愛は、相手に対する無条件の肯定である[要出典]」とする考え方もある。
- ^ 「[要出典]数多くの形やレベルがあるので、定義は難しい。ほとんど宗教的な話になってしまうし、宗教的なテーマでもある。愛は言葉によって定義するのがほぼ不可能であるし、言葉によって伝達することは非常に難しい」。
- ^ 「[要出典]愛は、愛する・愛されることを通じて強く実感することで理解できる可能性がある」
- ^ [要出典]物語では恋愛そのものが主題である作品がある。また、愛やそれに類する感情が、人々の強い願いや欲望としてドラマを作り出す重要な要素になっている作品がほとんどである。
- ^ [要出典]絵画や彫像や音楽など芸術においても愛は重要である。まず絵描きであれば絵を愛しているだろう。愛を扱った芸術作品も数え切れないほど制作されている。[要出典]目に見えない愛を例えば絵で表現することは簡単なことではない。
- ^ 【仲間意識】[要出典]自分と同じような立場にあるものには通常より好意が生まれやすい。自己愛との関係も気になる。例えば一緒に暮らしている、同じ仕事をしている、同じ趣味を持っている、同じ考え方を持っているなどがある。動物でも一緒に暮らすことで愛が生まれることもある。
- ^ 【あばたもえくぼ】(「人を愛すると欠点にも好感が持てる」の意)と諺にあるように、愛は事実を誤認させるものであるとする認識もある(脳内補間ともいう)。
- ^
- ^ 【偏愛】[要出典]偏愛は意味は偏った愛で異常に強い想いの場合に使われる。異常かどうかは判断する人による。例えば人形が好きならいいが人形を愛しているだと偏愛になる。[要出典]異常なまでに強い愛は往々にして相手を自分の元において我がものとしたい、という独占欲や支配欲に結びつきやすい。[要出典]理性を失うほど強く想っているためストーカーなどの犯罪を起こしてしまうという場合もある。[要出典]その場合は愛と呼ばないかもしれない。
- ^ 【溺愛】[要出典]溺愛は生き物の個体に対して強い想いを持っている場合使われる。犬(種としての)に対しては使えないが愛犬の太郎に対してなら使える。「あの人は犬を溺愛している。」の場合は飼っている特定できる犬である。見たこともない犬を溺愛しているというのは不自然である。溺愛している場合失ったときに大きな傷を受けることと周りが見えなくなることという大きな問題がある。
- ^ 【熱愛】[要出典]本来は熱烈な愛という意味であるが、現実には芸能人などで愛が発覚した場合に、たとえ本人達が熱烈でない場合にでもマスコミにおいて使われる言葉である。
- ^ 【部分と全部】[要出典]部分だけを愛して全体を愛していないという場合もある。普通人には長所と短所がある。そのため愛しているとしても嫌いな部分もあるだろう。嫌いな部分を受け入れないとしたらそれは本当に愛と呼べるのか疑問である。
- ^ 【愛の見返り】[要出典]愛に見返りを求める場合がある。自分が強く思っているのだから相手にもそう思って欲しいと思うのはやむを得ないようにも思える。しかし見返りを求めないほうが正しいとする考えもある。
- ^ 【強さと弱さ】
- ^ 【美しさ】[要出典]これも強さに含まれるだろうがとても重要な要素である。歴史の中でも美しいという理由で愛された人物は数知れない。
- ^ [要出典]ただし、日常においては愛がどのような対象に対して発生するかについては、かなり具体的な解釈があるともいえる。[要出典]ただし、これらの解釈も、倫理的、宗教的に制限されることがある。
- ^ [要出典]「愛」の対象としては下記以外にも、犬や猫など種そのものや骨董品や刀など複数あるもの(刀全般が好きなのと所持している刀が好きなのとでは違う)(ドラゴンやガンダムなど想像上のものでも良い)、スポーツや乗馬など人間をはじめとする諸生物が行う行為(非物体である「行為の方法やふるまい」)、自然現象から宇宙の摂理に至るまで愛着のあるあらゆる事象に対して普遍的に生まれる感情の対象であるとされる。
- ^ ただ普通は、対象を特定せず上記の普遍的な「愛」の概念一般を包括して指す抽象的概念の総称として、または、特定の主体者が「愛」として抱く対象として起こる感情を限定する特定の対象に対して、表現する用語として用いられる対象が二分化されることが多い。[要出典]
関連事項
- 好き、嫌い - 好悪の感情は、愛着の感情に、また恋愛の感情につながる。
- 恋、恋愛
- 執着 - 執着は仏教の煩悩の愛。
- 嫉妬 - 恋愛は嫉妬を生む。
- 性愛 - 極度に情愛の高まった男女間・同性間が達する。
- 感情の一覧
関連書籍
- エーリヒ・フロム『愛するということ』紀伊國屋書店, 1991年, ISBN 4314005580
- スコット・ペック『愛と心理療法』創元社, 1987年, ISBN 4422110837
- ジョーン・ボリセンコ『愛とゆるしの心理学』日本教文社, 1996年, ISBN 4531080971
- 飯田史彦『愛の論理』PHP研究所, 2000年, ISBN 4569612172
外部リンク
- 『愛を論ず』(1894年文献)国立国会図書館
- (百科事典)「Philosophy of Love」 - インターネット哲学百科事典にある「愛の哲学」についての項目。(英語)
- (百科事典)「Love」 - スタンフォード哲学百科事典にある「愛」についての項目。(英語)